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「一人の医者としてどう生きるか」

当時外科医として働いていた大類隼人さんは悩んでいました。

「自分のスキルを用いて、もっと自分で出来る新たな挑戦をしたい」

毎日の仕事に追われながらも、少しずつ挑戦の舞台を広げ、世界各地で様々な災害現場へと向かいます。そして目の前に広がる見過ごすことができない光景。

そこから大類さんの国際協力への道が始まり、Future Code設立へと繋がります。

医者としてのキャリアを離れ、なぜ国際協力の道を選んだのか?大類さんの挑戦、そして素顔に迫ります。

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きっかけは、東日本大震災

ーー元々は日本で医者をやられていた大類さんが、国際協力に携わったきっかけとは何ですか?

私が、実際に国際協力に興味を持ってから初めて行動に移したのは「災害時の救命」でした。当時の私は、自分のスキルである救命救急を用いた活動のできる国際医療団体にボランティアとして所属をしていて、通じて日本や海外の途上国の震災があった場所へ緊急支援に行くなどしていました。なぜ私がこの活動を始めたのかというと、私は医者として自分の働き方、生き方に迷い、分からなくなるようなしんどい時期もあり、そんな時に自分の中で芽生えた「自分のスキルを用いて、もっと自分で出来る新たな挑戦もしたい」という想いから自分のスキルである救命救急を用いた国際協力を始めました。

国際協力と言っても、初めて私が経験した災害現場は、「東日本大震災」でした。目の前に広がった、跡形もなくなった街の景色に圧倒された自分を今も覚えています。その後、2011年10月23日に起きた東トルコ震災に向かいます。この土地はクルド人たちが住んでいる場所で、イランやイラクの国境と近く、吹雪の中でテントで寝泊まりしながら活動をする、貧困地の中でも厳しいところでした。そうした現場で活動する中で、救命救急はもちろん必要なことだけれどもハイチやクルディスタンなどで起こる災害の場合、緊急で行う救命の活動は1週間~2週間で終了します。

しかしもともとこの場所では、災害が起こる前から住民の医療機関へのアクセスは難しく、逆に我々が滞在している間だけ診療することができ、自分たちが現場から離れてしまったらまた何もなくなってしまうのです。救命は「必要だからやる」、そうした感覚でやっていますが、私はじっくりと現地の人々と共に、現地の医療を育てる必要性を強く感じました。東日本大震災の現場を経験した後に、2010年に31万人の死者を出したハイチ震災の現場にも私は向かいました。

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運命を変えた、ハイチの出会い

ーーハイチではどんな経験をされたのでしょうか?

最初は出会った人々に対して自分が何ができるのかを考えていましたが、結局は現地で出会った現地の人も含めて皆から私が教えてもらっていた事が多いと気づきました。なかでもハイチで出会った、現在はFuture Codeの顧問を務めていただいております須藤昭子先生はシスターであり日本人の医者でもあるという方で、50歳の時に渡航されてから37年間ハイチで活動してきた人でした。私が初めてシスター須藤先生に出会ったときは、まだハイチの倒壊した病院で活動されていました。

ハイチは震災から当時1年以上経っているのにも関わらず、まだテントで診療をやっているような状況でした。当時コレラが蔓延しているような状況の中で、須藤先生は結核診療などに取り組んでいたのですが、私にとって忘れられない出来事がありました。それは、1人の患者さんが結核で寝ていた時に、皮膚が動いているんじゃないかと思うくらいのすごい数のハエが集っていて、それを見た私は呆気にとられてずっと見ていました。その時に、須藤先生に「ハエはね、良く知っているんですよ」と言われて。その言葉が物凄く私にとって衝撃的で、私の知っている日本の医療であれば、「人が死ぬというのは生きている人の中でたまに死んでしまうこと」でありましたが、ハイチでは「死んでいく人たちの中で生かす人を作ろうとしている」ような感覚なのです。

ハイチではコレラでも7000人以上の人が亡くなっていて、本来であれば先進国で治療したらほとんどコレラではしか死ぬことはありません。つまり私の感覚では「死なない病気なのにハイチでは死ぬ」ということであり、簡単なものが簡単にできないことを痛感した瞬間でした。須藤先生も、「長年、ハイチで結核検診を実現させたかったが、それができなかった」と話をしてくれました。

普段日本の都市部では、そこで働く医師としてのそれぞれの専門性やスキルには多少の差はあったとしても、それを補うことのできる機能を持った病院は近隣にいくつかあるものであり、それぞれ医者個人の専門性やスキルの問題は、患者さんの不利益にならないように連携されています。そうした中で自分が医者として働いてきたからこそ、自分が「この人を助けた」という感覚は正直あまり感じたこともなかったです。

それは、私を含めて皆にとっても「できて当たり前」のルーティンワークだからです。しかし、ハイチでは「なんでこの人が死ぬの?」という人がどんどん死んでいきました。しかも、週末は医療スタッフが足りないから死にやすい、などといった理由で死んでいきます。そうした現状を目の当たりにして、命の価値を考えるようにもなりました。「ここでは命は軽いのか?」と…。

しかし、もちろん決してそうではありません。実は先ほど話したハイチの患者さんのシーンですが、あの一瞬が私の人生を完全に変えた一瞬でした。そのハエが集って間もなく死んでいった人を見て、思わず私が放った「日本だったらこんなことはあり得ない。点滴の一本でもすれば…」という一言を聞いたシスター須藤先生は「これだけ長い時間ハイチにいて、30数年医療活動をやっているけれど、簡単なことでさえも出来なかった」と、あの言葉がひどく胸に圧し掛かったと、後に仰っていました。

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ーーハイチでの経験、そして須藤昭子先生との出会いが、大類さんにとって原体験なのですね。

はい。その後、私はシスター須藤先生の医療施設からは離れるのですが、どうしてもあの患者さん、あの現場が頭から離れず、何か微力でも力になりたいと思い、ハイチを離れる前にもう一度シスター須藤先生とお会いすることにしました。そのときに、「ここで結核検診を実現させたい」と言ったところ、ふたつ返事でシスター須藤先生も快く「やりましょう!」と受け入れてくれたことで始まったのがFuture Codeです。なので、どちらかというと、始めは我々は団体ではなく結核検診を実現させるためのチームでした。

そこから、まずはレントゲンを用いた結核検診というもの自体が浸透していないハイチにおいて、医療人材を育てることから始め、ハイチのドクター2人を日本に連れてきてトレーニングをしました。その後、レントゲン等の機材を日本の政府に協力していただき、機材、人材、システムを整えてハイチの病院を再度立ち上げました。しかしながらシスター須藤先生の体調も思わしくなく、2013年の8月にシスター須藤先生は日本に帰られることが決まっていました。そうした中で、1番最初の検診は絶対にシスター須藤先生と一緒にやることが目的だったため、実現させるために動いていき、結果どうにか2013年の6月に実現させることができたんです。こうした経緯から私は自然と国際協力に携わっていきました。

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テロから逃げない、自分を裏切らない覚悟

ーー東日本大震災などの災害現場での活動が、今の大類さんの活動に繋がっていると思います。同じ災害現場であっても日本と途上国とでは大きな違いを感じ、テロなどの自らの危険性を感じたこともあったかと思いますが、そうした現場で活動することに迷いや戸惑いはありませんでしたか?

頭の中では、ある程度いつも考えています。例えば、2016年バングラデシュでテロがあった時は、私は西アフリカにいたので直接の被害はありませんでしたが、その後すぐにバングラデシュに行くことになって、そうした時に危険性を考えないことはもちろんありません。それは、2015年の10月くらいから日本人もターゲットになるということが分かっていた中で、自分が現場に入るといった時に「大丈夫だろうと思いつつも万が一はあり得る」わけですから。また、実際に昔ソマリア国境の難民の支援をやろうと、調査のためキャンプに行った時に、私と合わせて2人で行っていたのですが、その時にホテルが丁度テロ組織にアタックされて「ここでもう終わりかな」とも一瞬思いましたが、あの時は運よく難を逃れることが出来ました。

そしてすぐに撤退を決めて首都のナイロビに戻っている時に、戦車の部隊とすれ違って「何だろう?」と思っていたら、これがテロ組織のアタックに対するケニア軍の報復攻撃部隊でした。その2年後、ケニアのナイロビにあるウエストゲートというショッピングセンターがテロ組織に襲撃されて、何百人も死ぬという事件がありました。このテロが起こったときにはたまたまタンザニアに居たのですが、実はその1週間前に、私もこの事件現場のショッピングセンターでたまたま友人らと一緒にコーヒーを飲んでいたんです。そしてこのテロはケニアのあの昔の報復攻撃に対する、テロ組織の報復攻撃でした。あの自分がいた現場から未だに憎しみが連鎖していて。いくら気を付けていても、安全と言われる場所にいたとしても、防ぎようがなく突然このような事件や災害は起こることもあります。たまたま自分だけは特別なわけはないですし、今まででも、仲間を失ったこともあります。そうした恐さは当然自分の中に存在しています。

でも、それを言い出して現場に行かないというのは、私にとっては意味のない話であって、自分のアイデンティティの問題でもあります。例えば「テロがあったので撤退します」とベンガル人に言うことはあってはならないことだし、それはテロ組織が望んでいることでもあります。シスター須藤先生がハイチで日本人のイメージを作ったのは、40年近くひたすらに現場を裏切らずにやってきたからです。医療者としても、自分の目の前で見てきたものに何もしないというのなら、自分を裏切ることでもありますし、この業界ではきっと私は働けません。そういえばシスター須藤先生も「自分が毎日通勤する道にもし人が倒れていたら、大丈夫ですか?と声をかけるじゃないですか。それが私にとっては人間としての普通の行い」だと言っていました。それがたまたまシスター須藤先生にとってはハイチだったのだと。

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バングラデシュでの新しい挑戦

ーー今回のクラウドファンディングの現場となるバングラデシュで活動する中で、大変なことや困ったことなどはありますか?

実は、今までいろいろ経験する中、何をどうしてもいちいち難しい現場もありますが、私にとってバングラデシュは少し気が楽というのが本音です…(笑)それは、 我々が活動している首都ダカは、我々にとってはリソースがたくさんあるので比較的やりやすい現場だし、コスト面で考えても物価も安いので、物や人の調達がしやすいです。ただ、もちろんバングラデシュの全てがやりやすいという話ではありません。例えば、2012年当時、南のエリアを調査した際、そのエリア一帯がハリケーンでやられていたので、物凄く大変でした。村が全て無くなっていて、そこを支援しているNGOもほぼほぼゼロという状況でした。これは極端な例かもしれませんが、やはり被災地でなくても、農村部などは首都ダカから見ても、まったく違う現実があります。

今回のプロジェクトの現場はスラムで、私たちのファーストステップとなります。このプロジェクトが成功すれば、次のステージに進むことが出来て、医者を病院に入れる→運営を再建し、病院を再生する→スラムに医療を入れる→病院として教育機関にもなる という順番で考えています。

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もしちゃんと教育機関になったら、奨学金として生徒の学費を免除するような仕組みも考えています。つまり奨学金を出す代わりに、2年間医療スタッフとして生徒には居てもらい、スラムの診療などにも協力してもらいます。これによって、今よりも豊富な人材を発掘することができ、より広範囲に医療を届けられるかもしれません。私たちの最終目標は「現地の自立」なので、ベンガル人のお金をベンガル人のために使うという仕組みをここで生みだすことが大事になってきます。私たちが居なくても彼らが自立できる状態にするのは、簡単な事ではありませんが、叶えなければならない夢であって、彼ら自身が貧しい人を助けていくという構造を作りたいのです。

また、こうした活動に合わせて2013年~2015年まで我々はバングラデシュの軍病院の看護師育成にも関わっていました。大きな目的はもちろん看護師らを育成することではありましたが、そこで働く日本人である我々を見て、現場では日本人のイメージが創られていきます。そして私たちが現場を手がけることは日本人の医療が入り込むということでもあります。これは決して軽い責任ではありません。いつか国がもっと発展して、我々が彼らに病院を完全に任せることができた時に「優秀なベンガル人のお医者さんが働く、この日本人の支援した病院は社会貢献もしている。良い病院だ!」という価値感がいつかもっと現地に広がってくれたら。そういう意味では今回のプロジェクトもこうした日本とバングラデシュの友好の未来の一歩に繋がっていると思っています。

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ーー医者という職業をする中で「人を救う」ということの大変さや苦労さも味わってきたと思います。医者を始めた当初の自分と比較して、今の自分の生き方や活動に満足はしていますか?

十分楽しんでいます。「楽しいからやっている」というモチベーションは大事ですし、大きく生き方も仕事も変わりました。医者という仕事は基本的には目の前の人間を何とかするというものです。しかし、今私がやっているのは「公衆衛生学的マネジメント」的な要素が多くあります。これは私がわざわざイギリスまで行って大学院に留学した理由なんですが、途上国における医療支援の導入にどういうアプローチ、マネジメントをしなければならないのか、そのワールドスタンダードを自分の中に叩き込みたかったからです。つまり、当時目の前の医療しかできない自分がプロを名乗れるかというところに疑問を感じたわけです。

私が居た学部は「実践が全て」という学部で、例えば「2週間後までにどこかの国と感染症を選んでプロポーザルを書いて来い」というような課題でした。そうしたことを1年間ずっとやるという学部だったからこそ、ほぼ全ての学びが今の自分に活きています。しかし、すべて習った通りのスタンダードなプログラムをやっているわけでもなく、どちらかというと私は「現場の声」を重視しています。つまり現場の情報をあげて、何が彼らが欲しいと望んでいるのかを特定しない限りはちゃんとした支援はできないでしょうし、逆に彼らが望まないことであれば、例え良い方法であったも、我々がする必要はないと思っています。

医者は医療機関があってこそ役に立てるのであって、私も過去現場で自分の無力さを痛感しました。今では日本では外科医としては2012年に退職しましたし、実際に自分で医療をすることは少ないですが、医療の届いていない世界に医療を作り上げるというマネジメントを仕事とする今でも、自分では誇りを持って医者をやっているつもりです。

また、途上国の多くの人が、たとえ貧しくても力強く、人を大事にしながら幸せを作り、生きています。そういう姿に私自身が人間として教えてもらったことは計り知れない自分の財産でもありますから、あまり私も自分が苦労をして活動しながら生きているとは感じていませんし、むしろ昔より人間としても活動を通じて豊かにしてもらったんじゃないかなと思っています。

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『VOYAGE PROGRAM』での挑戦

『VOYAGE PROGRAM』は、国際最大規模のクラウドファンディングサービスを手がけるREADYFORが新たにはじめた国際協力活動応援プログラムであり、AfriMedicoは第2回参加団体に選出されました。

大類さんたちは破綻寸前の病院再建!バングラデシュのスラムを医療モデル地域へというプロジェクトの成功に向け、現在活動資金を集めています。

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途上国の教育課題を若者の力で解決する

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