トジョウエンジン読者のみなさま、こんにちは!e-Educationバングラデシュでインターン中の北川修平です。
前回の記事では、僕が映像編集を通して得た気づきをご紹介しました。今回からはいよいよ、バングラデシュに渡って実際に五感で感じた現地の様子をお伝えしたいと思います。
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すべてはこの1通のメールから始まりました。
「バングラデシュリーダーのマヒンの手伝いだったら可能です。」
e-Education副代表、三輪さん(三輪開人)からのメールにはそう書かれていました。「1ヶ月、e-Educationを手伝わせてください!」そんなメールを送ったのが、2012年、年の瀬のこと。断られることも十分覚悟していたので、そんなメールを三輪さんから受け取った時、僕は数秒考えて、すぐに返事をしました。
「行きます!」
何か具体的にやりたいことがあったわけではありませんでした。しかし、本当に直感で、そこに飛び込めば、必ず面白いことが待っている気がしたのです。こうして僕は、乾期で土埃舞う3月、バングラデシュの空の玄関口であるシャージャラル国際空港に降り立ちました。
不安9割、期待1割でのバングラデシュ到着
シャージャラル国際空港は意外なことに、日本の女子大生であふれていました。なんのために来たのかと聞くと、ほとんどの全員が、1週間のスタディーツアーに参加するとのこと。
どこのホテルに泊まるだとか、日本にいるときからSNSを通じてスタディーツアーの参加者と仲良くなっただとか、そんな話をする彼女たちが輝いて見えました。そんな中、ただ1人、1ヶ月のインターンシップに参加するというむさくるしい恰好をした僕に対して、1人の女の子が聞きました。
「ところで、北川さんはどこに泊まるんですか?」
「わかりません・・・。」
「どんな日程で活動するんですか?」
「聞いてないです・・・」
「なんで参加しようと思ったんですか?」
「面白そうだったからです・・・」
「そもそも、どこでインターンするんですか?」
「e-Educationです!」
「・・・知りません・・・」
怪訝そうな顔をする彼女たちを後にして、僕は1人、空港の出口へと向かいました。正直に言えば、これから何が起こるのか全くわかっていませんでした。そして、不安9割、期待1割の心持ちで、バングラデシュの大地に踏み出しました。
向かって右がマヒンの弟のトゥヒン、左が現地メンバーのモミン
死者80人以上!最悪のタイミング
「最悪のタイミングで、バングラデシュに来たね!」
空港に僕を迎えに来てくれた、マヒンの弟 トゥヒンは満面の笑みでそう言いました。実はこの時、バングラデシュは独立以来の一大事を迎えていたのです。
ことの始まりは、1971年のバングラデシュ独立戦争までさかのぼります。約40年前、バングラデシュ(当時は東パキスタン)はパキスタン(当時は西パキスタン)との独立を求めた戦争に勝利しました。その戦争中、バングラデシュ内においてパキスタン軍を支援し、パキスタン軍の戦時中の蛮行にも加担したとされる、「ラザカー」という集団がいたのです。
そのラザカーを、当時指揮していたのがジャマティ・イスラムという政党。このジャマティ・イスラムはバングラデシュ独立後もバングラデシュ国内の正式な政党として活動して、今に至ります。
そして、今年に入ってから、ジャマティ・イスラムの指導者らに対する、戦争責任を問う裁判が行われました。結果は党代表の終身刑。この結果に黙っていなかったのが、市民でした。彼らは首都ダッカに集結し、十数日間にも及ぶ座り込みによる抗議活動を実施。この時に参加した人数が、数万人にも及ぶことからも、この問題に対する市民の強い気持ちがうかがえます。
この事態が急変したのが、僕がダッカにつく前日、2月28日のことでした。戦争責任を問う裁判で、ジャマティ・イスラム副代表への絞首刑判決が下されたのです。ダッカで座り込みを続けていた市民はこの結果に歓喜しました。
しかし、この判決に今度はジャマティ・イスラムの支持者たちが激怒。この結果を受けた彼らは、バングラデシュ各地で警官隊と衝突し、80人以上の死者を出しました。
僕がダッカに到着したのが、こんな衝突の残り火がくすぶる、翌3月1日のことでした。「こんなことは独立以来、初めてのことだよ。」僕が会ったベンガル人は口をそろえて言っていました。
「1人の人間を巡って、100人が死ぬ。それがこの国だよ。」 その日の午後に会ったマヒンの言葉が、やけに僕の耳に残りました。
向かって右手がチャンドプールの教室&ゲストルームが入ったマンション
e-Educationバングラデシュは今!
そんな不穏な空気が漂うダッカを、到着後すぐに離れた僕とトゥヒンは、一路チャンドプールへと向かいました。最初にe-Educationが奇跡を起こしたハムチャー村から1時間ほど離れたこの町こそ、現在 e-Educationの中心となっているところです。
大きな川のほとりにある、青い5階建ての立派なマンションの1階には、e-Educationの教室とオフィスが、4階にはなんと、間取り2Kのゲストハウス(僕が主に滞在したのがここ)まで用意されているのです。
この建物からもわかる通り、2010年に授業を開始したe-Educationは開始からたったの3年で、その規模を大きく拡大しています。生徒数は、2010年の46人から200人へと4倍以上に増加し、その200人の枠に対しても、500人以上の高校生から申し込みが殺到しました。
急ピッチで事業を拡大してはいるものの、申込者数の増加にはとても追いつかない状況です。さらに2013年度に関しては、まだプロモーションが始まる前にも関わらず、3月20日の段階で、すでに20人以上の高校生から正式な申し込みを受けています(授業開始は5月)。マヒン曰く「こんなことは、始まって以来、初めてのこと」だそうです。
e-Educationが現地で注目を集める理由とは
なぜこれほどまでに、e-Educationが地元の高校生から熱い注目を集めるのでしょうか?その理由は、なんといってもその実績です。
ダッカ大学をはじめ、学費の安いバングラデシュの国立大学の倍率は軒並み20倍を超えます。このような状況の中で、田舎に住む貧し高校生が、都会に住む裕福な学生との競争に勝ち抜き、国立大学の合格を手にすることなど、夢のまた夢でした。
ごく一部の恵まれた学生の中の、さらに一握りが国立大学への合格を手にすることができるのです。それにも関わらず、e-Educationは毎年のように、田舎の高校生から国立大学の合格者を出し続けています。
「農村に住む学生を国立大学へ」
そんな夢を現実にする場所、それがバングラデシュで僕が目にしたe-Educationの姿でした。
街中を走るCNG。バングラデシュでは街中の移動は基本的に徒歩かリキシャかCNG
始まりは突然に・・・
こうして、チャンドプールにも到着し、晴れて僕のインターン生活が幕を開けるはずだったのですが、実は初めの1週間はほとんどインターンらしいことをしませんでした。
マヒンの実家に泊まらせてもらったり、現在バングラデシュで進行中のe-Farmingプロジェクト(e-Educationの農業版)の舞台となる島を見学したりと、バングラデシュを満喫していました。ただ、そんな旅行者気分が長続きするはずもありません。
到着から1週間ほどたった日、マヒンの実家からCNG(バングラデシュの三輪タクシー)に乗ってチャンドプールにつくと、マヒンが言いました「じゃあ、僕はこのままダッカに帰るね。あとのことはチャンドプールのメンバーに任せてあるから、よろしく!」
おもむろに目の前を走り去るCNG。こうして、ゲストハウスでの僕とベンガル人の共同生活、僕のバングラデシュインターンシップが、突如としてその幕を開けたのでした!

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