みなさんは、「いつか」という言葉、好きですか?
僕は、嫌いでした。「いつか」と言ってしまう自分が嫌いでした。
言い訳ばかりしていました。口だけでした。
そんな自分を変えたくて僕は「ドラゴン桜」e-Educationプロジェクトの門を叩きました。僕にとっての「いつか」が「今」に変わるまでの経緯を紹介させてください。
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「いつか」を繰り返してきた大学生活
教育支援の学生団体や、インターネットの会社でのインターン、海外や被災地でのボランティアという営利・非営利の世界を見て、いきついた将来の夢は「NGOや社会的企業で働く」という道でした。
しかし、将来の夢を持った時ですら、漠然と「いつかそういう人になれたら」と思っているだけでした。
まだスキルもないし、一般企業に就職して数年修行してからその世界に飛び込んでいこう。そう自分に言い聞かせながら「今」という瞬間から逃げ続けてきました。
そして、僕は社会に貢献する「いつか」を夢見て就職活動を開始しました。
「今」を生きる人との出会い
就職活動が終わった4年の夏、社会イノベーター公志園という若手の社会起業家が集うイベントの運営のお手伝いとして参加していた時、初めてe-Educationプロジェクト代表である税所篤快のプレゼンを聞きました。
「僕と歳の変わらない人が世界を変えている」
彼の話を聞いて、僕の常識が覆りました。こんなすごい人がいるのか。若くても何かやれるかもしれない。そう思う一方で、僕は4年生、大学生活も半年。休学という選択肢もない。
だから時間のない自分には関係のない「いつか」の話。
そう、思っていました。
フィリピンが僕を変えた
既に学校の単位を全て取り終えていた僕は、何か刺激的なことをしようと考えました。結果、世界一周だ!と結論を出し、準備をしていました。
そして昨年9月、語学留学のため、後に僕の生き方を大きく変えることになるフィリピンへ一ヶ月いくことにしました。
ここにe-Educationの授業があれば…
語学学校、最後の週の休暇に、運命を変える出来事がありました。農村部にある性的虐待を受けた女の子達の通う児童養護施設を訪れたときのこと。
その学校では施設の外に出ることは危険という理由もあり、子どもたちは学校に通えていませんでした。勉強は、週に1度学校の先生が数時間だけ、訪問し教えてくれる状況。
この光景を見て、「遠隔地でも教育を受けられる仕組みがあれば」と思ったとき、e-EducationのDVD授業を思い出し、活動の意義に心から共感しました。
僕には半年だけれど、自由に使える時間がある、この時間を生かして、e-Educationを広めるために何か出来ないだろうか?1週間後、東京に帰った僕はすぐに連絡を送り、e-Educationプロジェクトの採用面接を受けていました。
「何かお手伝いできることはありますか?」
僕は、イベントの手伝いなど、補助的な役割を期待していました。しかし、面接の終盤にさしかかったころ、「フィリピンでドラゴン桜立ち上げてみない?」と、思ってもみなかった提案があったのです。
TOEIC250点の僕が、海外で事業立ち上げ?
絶対無理!!!まず、海外で事業を立ち上げる適正がない!
壊滅的な英語力、TOEIC250点1ヶ月の語学留学も、2週間目に日本人女性に恋をしてしまい、ほとんど日本語しかしゃべらずまったく進歩しなかった状況。
高校時代は嫌われ、ひとりぼっち。
高校時代を振り返っても、部活のレギュラーは一度もとったことがなく、しかも嫌われる始末。勉強もできず浪人。
クラスでもうしろの席に座って、クラスをまとめるどころか昼休みが始まった瞬間教室から飛び出し、便所飯ならぬ部室で1人ごはんを食べていた寂しい人間。
いつも1人でいる自分を学校の先生ですら腫れ物として、嫌っていました。
卒業式の時、みんながクラスに貢献したことなどをほめられる中、僕がクラス全員の前で担任からかけられた言葉は、
「あなたは最後まで分からなかった」
この言葉は影が薄く、暗かった僕の高校生活を象徴していました。大学に入ってからも「自信もった方がいいよ」と言われる度、高校時代の辛かった日々が頭をよぎりました。
低すぎる自己肯定感。それが僕。
絶対にできるわけがない!!!
出した答えはもちろん「No」。しかし、口では「No」と言う一方で、心の奥底では運命を感じていました。
その狭間で揺れ、即決ができなかった僕は、「一週間、企画書作ってくるので、僕の仕事を見て決めてください」と言いました。時間稼ぎの意図もあり、そう答えていたのです。
もう、「いつか」に逃げたくない
「誰かが」から「僕が」へ
そこからは、不安で朝起きると胃が痛い日が続きました。朝起きることが怖かったのです。そして企画書を作りながら、フィリピンの教育事業について、調べていきました。
もしかしたら大失敗してしまうかもしれないし、問題を無視して辞退すれば傷つかないかもしれない。おそらく将来ICT教育は流行しているし、きっと“いつか”この問題をだれかやってくれるだろう。
でも、僕がアクションを起こせば、
“今”から出会う目の前の人に機会を提供できることができる。
悩んだ結果、僕がやらなきゃ。そんな根拠のない使命感を持つようになっていました。そして1週間後、僕は「やらせてください!」、そう答えていました。
マニラのスラムに「今」希望の灯りを
僕は今、マニラのスラムでドラゴン桜を立ち上げています。マニラという高層ビルが建ち並ぶ大都市、その陰では多くのスラムが存在しています。
“学歴社会”フィリピン
特に、マニラでは大学を出ていないと良い職につけません。ファーストフードの店員でさえ全員大卒という社会。だからこそ多くの学生が良い大学を目指します。
裕福な家庭の子どもは、教育の質の高い私立高校に通います。
・1クラス40名以下
・授業時間は1日10時間
・非常に質の高い先生。
加えて、多くの子どもたちは試験直前の夏休みになると、高額なお金を払って予備校に通います。
対して、貧しい家に生まれた子は公立高校へと進学します。
・1クラスには私立の2倍に当たる80名の生徒
・朝昼2部制
・授業時間は私立より4時間少ない6時間
・もちろん予備校には行けません。
予備校にひと月通うためには、貧しい家庭が1ヶ月分の所得を集めてもでも足りないほど高額だからです。
貧富によって教育の格差が存在する社会。
しかし、そうした状況でも、人生を変えようと、可能性にチャレンジしたいと勉強をしている子たちがたくさんいるフィリピン・マニラ。
そこでチャレンジを望む子ども達に、フィリピン大学合格という夢を叶えるチャンスを提供したいと強く思っています。
このプロジェクトを通して、貧富による教育格差の壁を壊し、マニラ中のスラムに住む若者の心に希望の灯りをともします。
いつかではなく、今。1つでも多くの灯りをともします!
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