「価値観が揺らいだとき、新たな何かが見えてくることがある」
そう語るのは、前回紹介した鎌中俊充さんに続くもうひとりのキズキスタッフ。
学生時代のフランスとトーゴでの挫折を味わい、自分が情熱をもって取り組めるものを考え抜いた結果、キズキの職員となった方のストーリーです。
そして、最後にはキズキグループ代表・安田祐輔さんの想いも合わせてお届けします。
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フランスとトーゴで自信を喪失。人々の精神的な豊かさを追求したくなった
本日ご紹介するのは、株式会社キズキの伊藤優(いとう・ゆう)さん。1990年生まれ、東京都出身、キズキでは取締役経営管理部長を務めています。
伊藤さんは鎌中さんとは異なり、幼い頃から途上国支援に興味がありました。
ですが、国内支援に興味を持つようになったのは、その途上国支援で「挫折」を経験してからのことです。
小学生時代の国際協力への憧れ
伊藤さんは、小学生の頃に、大平光代さんの著書『だから、あなたも生きぬいて』に感銘を受け、「私も人を助けられる人間になりたい」と憧れを抱くようになりました。
また、ユニセフの「アフリカの子どもは1分に〇〇人死んでいく」というパンフレットを読み、幼いながらにショックを受けました。
そして「国際開発学を学んで、将来は世界中の貧しい人たちを助けたい!」と思うようになったのです。
その思いをずっと持ち続け、大学受験も上手くいき、東京大学で憧れの開発学を学ぶことになりました。
フランス留学で、周りの留学生を見て自信を失う
「国連で働きたい」という気持ちがあった伊藤さんは、高校・大学で国連の公用語でもあるフランス語を学んでいました。
そしてフランス語は得意で自信もあった伊藤さんは、大学の交換留学プログラムでフランスに行くことを決めました。
留学先はパリ政治学院という学校で、フランス人や留学生たちと一緒に、主に国際関係論や社会科学全般を勉強していました。
そんな留学生活のある日、他の留学生たちのプレゼンテーションを見て愕然とします。
他の学生は、言語能力、コミュニケーション能力、思考の深さなど、全てがそれまでに見たことのないレベルの高さだったのです。
それに対して、伊藤さんは、先生が口頭で伝えてくる宿題内容を聞き取るのに精一杯でした。
伊藤さんは、「彼らと自身に圧倒的な力の差があることに気づきました。そして、この日から、『世界には優秀な人がたくさんいるのに、自分程度の人間に一体何ができるのだろうか?』という考えが、頭の中をぐるぐる回り始めたんです」と言います。
「世界を股にかけて働くかっこいい自分」という憧れのイメージは遠ざかり、自信を完全に失ったのです。
途上国支援についての、初めての挫折でした。
トーゴで国際協力という指針を失う
フランス留学で自信を失った伊藤さんは、さらにアフリカ・トーゴでの二つの挫折を通して「国際協力」という指針も失うことになります。
トーゴでの第一の挫折は、現地のNGOでインターンをしたときのこと。
「開発学を学んでいるなら、現場を見なくてはいけない」と思っていた伊藤さんは、知人からトーゴでエイズ・HIV患者の支援をしているNGOを紹介され、そこでインターンシップをすることにしました。
しかし、いざエイズ患者の人々のサポートをしていると、彼らに本気で向き合えない自分に気がつきます。
伊藤さんが関わったエイズ患者の中には、夫に離縁され孤独に生活しているなどの悲壮な人生を送っている方もいました。
彼女たちを見たときのことを、伊藤さんは「あまりにも自分と違う世界にいる彼女の境遇に対して心から共感することができず、『彼女を助けたい』というような情熱が湧いてくることもない自分に気がつきました」と言います。
相手のつらさを、実感を伴って理解することができなかったのです。
そんな自分が人情味のない冷たい人間に思えた伊藤さんは、「国際協力をする資格など私にはない」と絶望しました。
トーゴでの第二の挫折は、現地の友人にキリスト教の教会に連れていってもらったときのことです。
それまで伊藤さんは、「教会」というと「賛美歌が流れて厳かな雰囲気」というイメージを持っていました。
ですが、現地の教会は全く異なったのです。
厳かさなど何もないアップテンポな曲調の賛美歌が流れ、それに合わせてバンドがギターをジャガジャガと弾き、人々はファンキーに踊り、神父は絶叫。
そして、集まっていた人々は皆イキイキとした表情をしていました。
友人は伊藤さんにこう言いました。
「私たちは確かに日本人と比べたらとても貧しい。でも神様が僕たちを守ってくれるから何も不安はないし、毎日家族や友達と一緒に暮らせることが何より幸せだよ。」
伊藤さんが開発学を学んでいた理由は、「貧しい人々はつらい思いをしている。彼らの生活を向上させたい」という思いからでした。
しかし、トーゴの人たちは、イメージしていた「かわいそうな人たち」ではなかったのです。
トーゴの人々の「貧しいながらも幸せに満ちた生活」を見た伊藤さんは、自分の価値観を押しつけて、彼らの生活を変えようとすることに大きな矛盾を感じたのです。
メガバンクに就職するも、精神的につらい状況に
伊藤さんは、フランスとトーゴでの三つの挫折経験によってそれまでの価値観が根幹から揺らぎ、自分が社会に対して何をすべきか全くわからなくなりました。
そんな状況で日本に帰ってくると、すぐに就活の時期に入りました。
国際協力という目標を失い、「何のために働くのか」が全くわからないままの伊藤さんでしたが、メガバンクへの就職が決まりました。
東京大学からメガバンクと、端から見ればエリートコースです。
しかし自分の価値観が揺らいでいる中で就職した伊藤さんは、就職後も「仕事に熱意を持っている周りの社員」との温度差を感じ続ける日々を過ごしていました。
自分が本当に人生をかけてやりたいことが何なのかがわからず、精神的につらくなっていったのです。
「精神的な豊かさを追求したい」思いからキズキへ
フランスで周りとの差に圧倒され、自信を喪失した自分。
トーゴでエイズ患者の境遇に共感を抱くことができなかった自分。
貧困国支援への価値観が揺らいだ自分。
銀行の仕事に熱意を持てず、精神的に苦しむ自分。
「では自分が共感と情熱を持って取り組めることは何か?」
悶々と悩み続け、出した答えは、「人々の精神的な豊かさを追求する支援がしたい」というものでした。
そんなときに、「何度でもやり直せる社会をつくる」という理念を持つキズキのことを知ります。
ちょうど代表の安田祐輔さんが講演するタイミングだったので、伊藤さんは、すぐに職場の京都から東京へ夜行バスで向かいました。
社会課題に対する本気の姿勢がある安田さんの話を聴き、自分が行いたい「支援」はまさにキズキのそれだと確信を持ちました。
その場ですぐに「職員は募集していないのですか?」と質問したとのことです。
新卒でメガバンクに就職してから2年3か月後、伊藤さんはキズキに転職しました。
価値観が揺らいだとき、新たな何かが見えてくることがある
伊藤さんに限らず、途上国支援や就職に限らず、「理想と現実」が違うことはよくあることかもしれません。
ですが、よくあることとは言っても、違いに直面すると、苦しみも覚えますし、価値観も揺らぎます。
そして、そこから新たに何かが見えてくることもあります。
伊藤さんの場合は、それが「人々の精神的な豊かさを追求する支援がしたい」でした。
キズキで働く今、伊藤さんは、「自分にとっての働く意味が明確に見つかったと実感しています」と言います。
もしあなたが途上国支援について悩みなどを覚えているようであれば、一度国内支援に目を向けてみてはいかがでしょうか。
伊藤さんと同じように、「新たな自分」が見つかるかもしれません。
日本を、希望の持てる社会、何度でもやり直せる社会に
最後に、キズキグループ代表の安田祐輔さんについても紹介します。
安田さんは、大学在学中にパレスチナ、ルーマニア、バングラデシュといった国々で紛争や貧困問題に関わるようになりました。
特に印象に残っていることについて、安田さんは、「バングラデシュの娼婦街で生活しながら、農村から売られて働いている娼婦たちを対象とした映画を制作していたころです」と言います。
現地で生活する中で、安田さんは、当地の貧困問題は、衛生・医療・教育などに不十分な点は多々あるものの、「餓死する」という類ではないことに気づきました。
貧しくても、幸せそうに生きている人々がたくさんいました。
一方で、極貧の農村にいるよりもはるかに所得があり、自由も保障されているはずの娼婦たちの中に、リストカットを何度も繰り返す人がいました。
そこで「人は、お金や暮らし向きによってではなく、尊厳によって生きている」ことを知りました。
そして、困難な状況にある人々を支援する仕事、人の尊厳を守るような仕事をしていきたい、と強く思うようになったのです。
また一方で、そのころの日本では、リーマンショックによる大不況などもあり、「日本の貧困」がクローズアップされ始めていました。
そこで日本に帰国し、日本の総合商社で働きながら、休日を使ってホームレスの方々を支援するNPOに参加したりしながら、日本社会について勉強を深めました。
その中で安田さんが気づいたことは、「発展途上国の人々の多くは確かに貧しかったけれど、そこには希望があった」ということです。
発展途上国に生きる彼らの多くは、日本の高度経済成長期のように、「貧しい生活の先に輝かしい未来が待っている」と信じて生活していました。
しかし、安田さんが見る限り、日本社会には「希望」がありませんでした。
特に、一度ドロップアウトしてしまった人はそこから這い上がることができません。
「なぜ一度ドロップアウトしてしまうとなかなかやり直すことができないのか」
安田さんは、自身の生い立ちやバングラデシュでの経験から、そのことをずっと悩み続けてきたと言います。そして、明確な答えは今もまだ見えていないとも。
「それでもなお、どんな環境で生まれ育ったとしても、たとえ人生のレールから外れてしまっても、未来が見えなくなったとしても、何度でもやり直せるような社会をつくりたい」
そんな思いから、安田さんはキズキを設立しました。
そして今も、キズキ共育塾をはじめ、国内支援に取り組んでいます。
国内支援にも、一度目を向けてみませんか?
おわりに
いかがでしたでしょうか。
キズキには、今回紹介した人以外にも途上国支援の経験者が多くいます。
途上国支援と国内支援には、共通する部分も多くあります。
もしあなたが、
途上国支援の経験を何かに活かしたかったり、
途上国支援の後に何をするか迷っていたり、
途上国支援に行けない事情があったりするようであれば、
国内支援にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
きっと、途上国支援同様の、尊さとやりがいを見つけることができると思います。
この記事が、あなたの新たな道を開く一歩となれば幸いです。
参考リンク:キズキグループ職員インタビュー
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