こんにちは!e-Educationプロジェクトアフリカ・ルワンダ代表の牧浦土雅(マキウラドガ)、19歳です。
このプロジェクトに2012年から参画し、今に至るまでの僕の毎日を表している言葉は、「足が地に着かない」だと思います。”興奮や緊張のため心が落ち着かない”のです。
プロジェクトをルワンダで現地人と一緒に立ち上げ始めてから、良いニュースでも悪いニュースでも日常から勉強になり、人生が数百倍楽しくなりました。
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今回は、連載初回ということで、なぜ僕が途上国に魅かれたか、そしてe-Educationの活動を行なうことになったのか、原点に立ち返ってお話させて下さい。
気付いたら、いつも違う国にいた
実は日本では、中学校までしか通っていません。中学1年生の時に行ったイギリスのサマースクールで、「本当に自分を出すことができ、楽しめる場所」は日本で無いだろうと確信しました。
次に同じようなことを考えた中学2年生時の春には、既に英国のボーディングスクール(寄宿制中高等教育学校)に入学していました。高校2年生時では人生初の途上国となるインドに。そして、高校卒業後はルワンダに。
留学を始めた2007年からの6年間で、日本での最長滞在期間は夏休みのたった2ヶ月間でした。
自分の原点は、インドでのボランティア活動
高校のある授業で、学校周辺地域の貧困層の割合について調べる調査をしました。
そこでようやく僕がどれだけ恵まれているか、しかも他の友達よりも断然勝手にここまで生きてくることができたかという事を実感しました。
高校2年生時には、友人と大学に出す願書に書く事を増やすために、インドへ英語教師としてボランティア活動しました。最初は何も考えずに、スラム街で下は13歳から、上は20歳までの生徒たちに英語を教えていました。
しかし、数日間教えているうちにあることに気付きました。
「これ、ただの自己満足だよね」
ボランティア活動全般を否定しているわけではありませんが、僕のような知識も経験も無い人間が短期間でスラム街の子供たちに英語を教えることは、正直言ってしまえば一方的。自らが少し良い事をした気分になっただけだと思いました。
実際に生徒たちは僕たちが帰ったあとは別のボランティア先生を待つ、もしくは自習するなど持続的な質の高い教育を受ける事はできないでしょう。
チャリティー活動の姿に疑問符
インドでの活動から、このような単語について調べ始めました。「貧困開発、チャリティー活動、援助、社会貢献、ボランティア・・・」
自らが感じ取った一方的で自己満足で終わってしまった経験を、グローバルの視点と照らし合わせてみると案外似ている事が分かってきました。数えきれないほどの国連・政府機関・NGO団体などが「貧困撲滅」というゴールに向けて様々な支援を行なっています。
でも何か違うのではないだろうか?
先進国政府は途上国に対し、多くのケースで向こうの言い分、そして現状を把握せずに援助をしている。
トップダウンな支援、清潔な水を提供するために浄水器を作ったのはいいけれども、農村部の人たちは肝心の使い方を知らないなどといった、「途上国支援」なのに先進国目線で考えられている国際協力の世界が僕は好きではありませんでした。
視野を広げてくれた「ギャップイヤー」
かといってここでいきなり政府の援助機関に文句を言ったところで、何か大きなアクションを起こせるはずは無いとまずは踏みとどまりました。そのため、高校生だった自分は、まず身近にできることから始めました。
自分の高校でチャリティー・タレントショーをオーガナイズし、そこから集めたお金をインドのNGO団体に寄付しました。
高校3年生の春には2005年のG8サミットも開かれたスコットランドのグレニーグルズホテルで、チャリティーファッションショーなどを運営しました。
英国では、大学入学までに1年の猶予(GAP=すき間)期間を与え、社会的見聞を広めるための「ギャップイヤー」制度があります。最近日本でも話題となっていますね。
この期間で大抵の学生は外国に出かけたり、長期のアルバイトやボランティア活動に従事したりします。その時はとにかく今まで自分が考え、調べてきた「国際協力」の世界でひと暴れしたいと思ってました。
恩師である藤原和博先生との出会い
僕をここまで成長させてくれた大きな要因の中に「恩師の存在」があります。
本連載中も登場してくると思いますが、藤原和博先生は僕をe-Educationプロジェクトに導いてくれた人です。藤原先生は元杉並区立和田中学校校長で、僕も彼の学校に1年ほど通っていました。
それは、2012年の夏のことでした。
イギリスでのボーディングスクールライフを終え、ギャップイヤーをとると言っていた僕に、本プロジェクト代表の税所篤快をご紹介頂きました。
藤原先生とは和田中学校を中退した時から7年弱お会いしていません。ちょうどその時、e-Educationが気仙沼で開かれていた社会イノベータ公志園の決勝大会に出場するとのことで、一緒に東京から気仙沼に行く道で7年振りに藤原先生と再開を果たす事ができたのです。
その1ヶ月後、代表のアツさんこと税所、僕、ヨルダン担当の伊賀友美、そして藤原先生と都内でお好み焼きを食べました。アツさんはその際、藤原先生にプロジェクトの進歩報告をしており、僕は初対面のアツさんの話を聞いているだけでした。
その後、僕、アツさん、伊賀さんで、吉祥寺のマクドナルドに。そこでアツさんと始めて会話を交わしたところ、いきなりルワンダe-Educationプロジェクトが今どんな苦境に立たされているかを説明されました。
一通りの説明を終えたところで
アツさん:「ねーねードガくーん、ルワンダ行ってみない!?」
僕:「えっ!?」
アツさん:「いつやるの!?行くでしょ!?」
僕:「無理でしょ!!」
正直、その後のアツさんとの会話は明確に覚えていません。しかし、夜遅くに帰宅し、父親に大声で、「俺、ルワンダ行くからよろしくお願いします!」と告げたことは鮮明に覚えています。
やってみないと分からない
もし、僕が他のメンバーの様に、自らが進んでe-Educationプロジェクトの立ち上げを行ないたかったのなら、二つ返事でアツさんからのルワンダプロジェクト立ち上げを承諾していたでしょう。
しかし、僕はその時、フィリピンマニラプロジェクト担当の伊藤聡紀と同様、「ソーシャルビジネス」という’’ビジネスで社会問題を解決する’’新しい国際協力の切り口に非常に興味がありました。
現在のところe-EducationはNPO団体です。だからギャップイヤーを取得して何かソーシャルビジネスで途上国に行きたいと考えていた僕の考えとは大いに異なっていました。
その後、副代表のカイトさんこと三輪開人さんとアツさんからルワンダでのe-Educationの話を聞いていました。詳しい内容は今後の連載で語らせて頂きますが、はっきり言ってこの時のルワンダのe-Educationの現状は決して良くはありませんでした。
しかし、何か普通とは違う、どちらかと言えば困難な状況からスタートさせることに僕の心臓は逆にバクバクしていました。そして次第に、「これは面白い!」と思えるようになってきました。
英国留学であり、ファッションショーであり、とにかく僕は全てに対して「トライ」してきました。
前例が無いならやってみなければ分からない。カイトさんもアツさんも、現地ではドガ君が好きなようにプロジェクトを進めていいからと念を押されました。
そんな思いのもと、一般的なボランティア活動などと違った、意義のある活動をしたかった僕にとって、もはやルワンダでe-Educationを立ち上がること以外は考えていませんでした。
新しいこと、足が地に着かないことが良い
冒頭で申し上げたように、僕の毎日は「足が地に着かない」です。ルワンダの話を聞いていると、全てが僕にとっては新しい事でした。
それが良い事・悪い事関係無しに、この「新しい世界」を知ることができるチャンスを与えてもらったことに関してとにかく僕はその時はエキサイティングでした。
これから単身でルワンダに渡り、プロジェクトを立ち上げる。話を聞いていき、自分が日本からのプロジェクト活動費も扱うことになるという責任がさらに伸し掛ってきました。
最初は不安しかありませんでした。しかし、この逆境を乗り越えることで、逆に普通よりも数倍の達成感や価値のある結果がついてくるはずだ、そう信じ込んでいました。
自分を無にして、吸収する生き方
城山三郎さんの著書で、僕の人生バイブルの一つでもある「逆境を生きる」という本があります。歴史上の著名人の魅力的な生き方をまとめてある本です。
その中の一人で資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一さんの、「自分に安住せず、自分というものを無にして、人から受信し、吸収しようとする生き方」という言葉があります。
これこそルワンダでこれから立ち上げを行なう僕が構えるべき姿勢だと感じました。すべてのことが新しい。不安だろうが期待だろうが自分の頭の中を真っ白にして隅から新しい情報を入れこんでいく。
知識を増やしていく事に無駄は無い。ましてや、アフリカルワンダに行って教育プロジェクトの立ち上げをするなんていう機会が今、目の前にあるなんて、僕は何てラッキーなんだと。
そして1ヶ月後、僕は成田国際空港でルワンダ行きの飛行機を待っていました。
’’とにかくやってみるぞ!’’
これから訪れる壮絶なバトル、予期せぬ政府の壁、ルワンダe-Educationの最悪の現状を知る由もなく、これからの4ヶ月弱を楽観的に妄想しているのでした・・・
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