e-Educationのビジョンは「人生に誇りを、社会には想いやりを」です。
7月、e-Educationではビジョン発信月間として、e-Educationスタッフの「人生に誇りを、社会には想いやりを」に繋がるエピソードを3週に渡って配信しています。
(前回の記事【vol2.高橋真理奈の#My episode】父から受け継いだ貢献心〜人生に誇りを、社会には想いやりを〜)
今回はいよいよ最後の3週目です。
vol3でご紹介するのは、e-Educationカントリーマネージャーとしてネパールに駐在しながら映像教育の公教育化に挑んでいるシェルパ絢子(しぇるぱ あやこ)さんのエピソード。
広報担当の私、鬼澤 絵美(おにざわ えみ)によるインタビュー形式でシェルパ絢子さんの背景も併せてお届けしたいと思います。
シェルパ 絢子 / カントリーマネージャー
大阪市出身。アメリカの大学で社会福祉を学び、卒業後はソーシャルワーカーとして従事した後、英国イーストアングリア大学大学院で国際社会開発学を専攻。青年海外協力隊でネパールのコミュニティ開発に従事した後、アイ・シー・ネット株式会社に入社。仕事も子育ても全力投球できる環境を求めて、2023年5月にe-Educationカントリーマネージャーとして参画。ネパール人のパートナーと娘と共に、現在はネパールに駐在しながら活動を行っている。
鬼澤:シェルパさんの内定が決まった時、三輪さんから、「シェルパさんはe-Educationのビジョンにめちゃくちゃ共感してくれていて」と話を聞いていました。
“人生に誇りを、社会には想いやりを”というe-Educationのビジョンへの共感はどういう所から来てるのでしょうか?
シェルパ:そうですね、“人生に誇りを、社会には想いやりを”ってビジョンへの共感は、私のバックグラウンドが社会福祉というのもあるかもしれません。
アメリカの大学で専攻していたのと、卒業後もソーシャルワーカーとして様々な困難な状況にある人に対し一人一人持っているポテンシャルを活かして自分の人生を楽しみながら生きて行けるようにサポートしていたことがあるのですが、e-Educationも教育を届けるというだけでなく、現地スタッフや生徒一人一人が人生に誇りを持ち、オーナーシップも持って、いずれ自走できるようにという支援の仕方なので共感したというのがあります。
鬼澤:シェルパさんは、これまで仕事を通して本当に様々な人と向き合う中で感じたことが、よりe-Educationのビジョンへの共感にも繋がってるのではないかと思っているのですが、“人生に誇りを、社会には想いやりを”というビジョンで思い浮かぶエピソードはありますか?
シェルパ:1番思い浮かぶのは青年海外協力隊時代の話ですね。当時、私はコミュニティ開発を担う一員としてネパールのグルミ郡に派遣されたんですけど、首都のカトマンズから西へ約400キロ、陸路で2日かかるような田舎で、雇用機会が少ないため若い男性は家族のために海外に出稼ぎに行かざるをえないという状況でした。
そこで私が取り組んだのがコーヒー産業の支援で、実はグルミ郡ではコーヒーが地場産業として盛んだったんです。ネパールは標高が高いので美味しいコーヒーができるんですよね。だからこのコーヒー産業を盛り上げて、海外に出稼ぎにいかなくても良いように、生まれ育った国で家族と一緒に幸せになって、人生に誇りを持って欲しいなというのをその時感じていました。
鬼澤:なるほど。コーヒー産業の支援は具体的にどのようなことをされて、結果どうなったんですか?
シェルパ:コーヒー農家の生活向上を目標にグルミ郡協同組合連合と協働で活動していたんですが、大きくわけると農業技術・ビジネス活性化・コミュニティ・農家支援の4本柱で進めていました。
例えば農業技術では、虫を寄せ付けないようにする木酢液とか竹酢液ってご存知ですか?日本発のオーガニックな忌避剤なんですけど、日本で農業を学んだネパール人の知り合いが木酢液や竹酢液を作っていたのでグルミ郡のコーヒー農家の方々にその作り方を教える研修をしてもらったり、ビジネス活性化では8年間停止していた海外への販路を再開させたり、コミュニティの部分では学校で子どもたちにコーヒーについての講座を、農家支援では収穫を手伝うこともありました。
※木酢液作りの研修の様子。木を燃やした後、冷やして出来た蒸留水を3倍に薄める。
鬼澤:コーヒー豆を作るところから販路開拓支援、さらには啓蒙活動のようなこともされていたんですね。
シェルパ:そうですね、首都ではコーヒーを飲む人も増えてきてますが、ネパールはお茶文化なので農村部ではコーヒーを飲む習慣がないんですよね。
子どもたちもコーヒーがどうやって作られるのか知らないですし、だから学校に焙煎した豆を持って行って、どうやってコーヒーが出来るのか、自分たちの土地で出来たコーヒーがどれだけ美味しいか知ってる?海外ではすごい飲まれてるんやでって、子どもたちに自分たちのコーヒー産業に自信を持ってもらうキッカケづくりをしたり、コーヒー豆を使ったアート体験で実際に触ったり匂いを嗅いでもらったり遊びを取り入れながらコーヒーに興味を持ってもらう取り組みをしてました。
※学校での啓蒙活動の際、子どもたちにコーヒー豆を使ったアート体験をしてもらった。
鬼澤:自分たちが暮らす地域の産業に関心を持ってもらうって長期的視点で見て大切なことですね。さっき8年間停止していた海外への販路を再開したという話もありましたが、ということは日本からもネットで買えたりするのでしょうか?
シェルパ:はい、ネパリ・バザーロさんってフェアトレードの会社が取り扱ってくれて、日本でもECサイトで買えるみたいです。
鬼澤:日本でも買えるようになったなんてすごいですね。私コーヒー好きなんですけど、グルミコーヒーは初めて知りました。
シェルパ:グルミコーヒーはネパールで最初にコーヒーの苗が植えられた歴史あるコーヒー産地なんです。そのストーリーを売っていくためにもコーヒーパッケージを新しくしたこともありました。
グルミ郡ってそもそもどこ?って知らない人も多いと思うので、海外から来た人向けに英語表記でパッケージに地図を入れたり、国内向けのパッケージの刷新に携わりました。私が来た当初はポテトチップスの袋のような感じのフィルムの袋に入っているだけだったので、ガスが抜ける袋に変えたり。
鬼澤:シェルパさんのおかげで再度海外にも売れるようになって、すごい社会的インパクトのある取り組みをされたんですね。その結果どうだったのでしょうか?
シェルパ:数字とかは特に取ってはいないんですけど、私がいたグルミ郡の人はイギリス軍に入軍したりするんですね。“グルカ軍”とか“ゴルカ軍”と呼ばれてますが、彼らが一時帰国したときに、私たちがパッケージを刷新したグルミコーヒーをお土産で買って帰ったら評判良かったという話を聞きました。
※シェルパさんが刷新したパッケージ。左が表面、右が裏面。
鬼澤:シェルパさんがグルミの人々とともにオーガニックな忌避剤作りからパッケージまでこだわって作られた商品が喜ばれるのは嬉しいですね。日本でも買えるくらいにマーケットが広がっていたら、きっとグルミの人々の人生にも誇りだったり良い影響を与えたのではないかと思うのですが、シェルパさんご自身が生まれてから今までの人生の中で誇りに感じたことや社会に想いやりが広がっていると感じたことってあったりしますか?またはその原点となることなど。
シェルパ:私が思う“人生に誇りを、社会には想いやりを”の原点は、自分の両親だと思っています。
親には本当に今でも毎日ありがとうって思うんですけど、私がやりたいことに対してノーと言わない、私が輝けるような場を作ってくれたのは本当に両親だと思っています。
私は大坂府の大阪市東成区出身なんですけど、東成区は下町で工場が多いんですね。私の両親もパチンコ玉作ってて、従業員は15人〜20人ぐらいだったかと思うんですけど、家のすぐ横に工場兼事務所があって、毎日父親と祖父とおじさんが働く姿も毎日見ていたし、経営者として従業員の方々への接し方も毎日見ていて、人生で初めて想いやりを感じたのはそこなのかなって思いますね。
私の母親も、元は銀行員なんですけど結婚してからは父を手伝っていて、お給料の日には、従業員の方に現金で手渡したいって、感謝の気持ちを込めて封筒に入れて、「今月はこの方頑張ってくれたから、ちょっと大目に入れようか」とか、中国から出稼ぎで来てる方もいて、片言の日本語だけど両親は他の日本人と同じ様に接していて、ご飯連れて行ったり、逆に水餃子の作り方を教えてもらったり家族ぐるみで仲良くしてて、むしろ経営者として働いてくれてありがとうって感謝をするのが当たり前っていう両親の姿が原点かなって。
鬼澤:なるほど。今の話を聞いてすごく腑に落ちました。
っていうのは、シェルパさんは、良い意味で誰に対しても接し方に全く変化がないと思うんです。例えば、上下関係があっても、上司でも後輩でもそうだし、日本人、中国人って人種も関係ないし、誰に対してもありのままの自分で接するっていうことが出来るのって何でなんだろうなって思っていたところがあったのですが、ご両親がベースになっているんですね。もう少しご両親の話聞かせてください。ちなみにシェルパさんは父親似か母親似かでいうと、どちらですか?
※アメリカの大学の卒業式に駆けつけてくれたご両親と。
シェルパ:もう断然、父親ですね。考え方とかポジティブさ、積極的なところも全部父親からですね。アメリカに行くっていうのも父親と同じですし。
鬼澤:お父様も若い頃アメリカに行かれていたんですか?
シェルパ:はい、父親は学生のとき、一年間テニス留学をしてたんです。ラケット持って短パンで飛行機乗ってましたね。何しに行くねんって(笑)もう本当に面白い父親です。その時の話を、アメリカってこんなやでって私たち3人兄弟にしてくれて。
鬼澤:どんな話をしてくれたんですか?
シェルパ:父親のルームメイトの引き出しに拳銃が入ってたりとか、ドラッグ、麻薬をしてる人が普通に身近にいたとか、日本ではあり得ないような話を聞いて、子どもながら、すごいなぁって。その時から海外への憧れがありましたね。
鬼澤:シェルパさんが好奇心持つポイントがちょっと違いますね(笑)拳銃とか、ドラッグとか、そういう話から憧れに繋がるってどういうことなんでしょうか?
シェルパ:なんやろ?英語が好きっていうのもあったし、周りにはいないような人がいる国って思ったからかな?
鬼澤:危険な香りがする話だとしても、自分のいる世界と全く違う世界というか、全く違うという事に対して好奇心を抱かれるのでしょうか?
シェルパ:それはあると思います。あと、私、中高一貫の私立に通ってて、夏に交換留学があったんです。でも吹奏楽部に所属してて、“夏のコンクール命”みたいな本気でガッツリやるような部だったんですね。だからそんなの行かせてもらえるわけもなくて、その分、大学でアメリカ行く!って憧れが募ってたのもあります。
鬼澤:そうなんですね。さっきお父さまに性格が似てるという話をしてくださいましたけど、普段ご両親からはなんて言われることが多いですか?
シェルパ:私の母親が言う口癖は、「あんたは決めたらやるからな」と。私、事後報告が多いので(笑)
アメリカに行くときも、留学斡旋会社も自分で探して、「留学の説明会があるから一緒に来てな」って、勝手に決めて。アメリカの大学に行くってなったら生の英語を聞きいて勉強しようと英会話教室に「すみません授業受けたいんですけど」って1人で行って、「親御さんの許可とかは?」って言われ、その場で父親に「やっても良い?」って電話してましたね。
鬼澤:その場で承諾取ったんですか?
シェルパ:はい、電話で。
鬼澤:その場ですぐ承諾できるお父さまもすごいですね。
シェルパ:父親は最初から「行けー!娘!」って、「You can do it!(君ならできる)」って感じで(笑)父親だけはエールを送ってくれて、母親は「行かんでいいんちゃうの?女の子1人やし」って心配してくれていたので、母親への説得は自分なりにしっかりしました。一生懸命バイトしてお金稼いで、母親に通帳渡して「こんだけ貯まったから、本気なんです。行かせてください」って。
でも母親も自分の子どもの意見を尊重したいというのもあると思うので、頭ごなしに駄目とは言わないし、私に考える時間持をたせるって意味はあると思います。
Noは言ったことないですね、まあ、私もそんなにぶっ飛んだことは言わないので。
鬼澤:そうです?言ってるんじゃないですか?(笑)
※シェルパ族式の結婚式で親族の方と。シェルパの民族衣装「ボク」を着用。
鬼澤:アメリカ留学されていた時に今の旦那さまと出会ってるんですよね?
シェルパ:そうです。同じ大学で。
鬼澤:旦那さまのことはご両親にいつご紹介されたんですか?
シェルパ:彼と付き合ったばかりで結婚しようみたいな話にもなってなかったんですけど、アメリカの大学の卒業式の時に両親が来てくれて。その時に彼と会って、両親もこの人なら大丈夫っていう確信はあったみたいですね。母親は英語話せないけど、彼が荷物を持ってあげたり、階段あがる時に母親をケアしたり、言語コミュニケーションがなくても動作で伝わることも多いと思うので、それで「この子は大丈夫」って思ったみたいですね。
鬼澤:じゃあ結婚するって決まったタイミングでご両親にご報告された時には、「あの彼ね」みたいな感じです?
シェルパ:そうそう、「あの方ね」みたいな。でも彼と同棲してたので、両親と電話する時に彼も横に居るので、「元気?」「彼どうしてる?」ってもう自分の息子みたいな感じでした。
鬼澤:すでに結婚前から旦那さまとご両親とのコミュニケーションが日常的にあったんですね。ここまでの話を聞きながら、シェルパさんとご家族との関係性、本当に素敵だなと感じました。ご家族との日々の暮らしの延長線としてe-Educationのビジョンへの共感に繋がっていったのだなと。
逆に、シェルパさんが誰かの人生のターニングポイントに関わった経験はありますか?
シェルパ:大学卒業後に働いた、未成年の非行少女の自立支援施設ですね。6人まで入居できて、リビングにソファーやテレビがあったり施設というより家なんですけど、刑務所よりゆるいけど一般家庭よりも厳しいルールがあり、更生して社会に戻れるようにするプログラムで、そこで出会ったステイシー(仮名)という子がすごく成長したという話があります。
私たちの施設に来る子の大半は黒人で、地元のコミュニティ出身の子が多いのですが、メキシコ国境近くから来るヒスパニック系の子ども達も一定数います。子どもたちの地域を管轄する保護観察管理責任者や指令を出す裁判官の意図として、近くの更生施設に送ると子どもたちはすぐに逃げようとするので、わざと家からは遠い私たちの施設に飛行機で送られてくるんです。
特にヒスパニックの子はドラッグとギャング問題が多くて、ステイシーもそう。あと暴力や強盗の前科があって、彼女たちを車に乗せて街中を移動するときは窓を開けないようにしてて、というのも敵になるような違うギャングの子たちが歩いていたら指のサインで喧嘩売って大事になることがあるんですね。
だから車運転しながら窓開けないようにチェックしてというのもスタッフの仕事としてあって。
ステイシーも来た当初はそういう感じだったんですけど、すごく変化して、学校にも行くようになったし、同じ施設にいる他の子のメンター的な役割を担ったり、最終的に高校の単位もしっかり取って卒業して、頑張って勉強して大学にまで行けて。
6年間働いて、そこまでの変化を見れたのは彼女だけですね。
鬼澤:話せる範囲で良いのですが、そもそも、ステイシーが施設に行き着くことになってしまった背景や、そこから大きな変化を生み出せたキッカケって何だったんでしょうか?
シェルパ:ギャングに所属する子たちって、親が嫌いとか家庭が嫌い、家に戻りたくない子どもたちが多くて、家庭以外の場所を探すんですね。
探した結果、ギャングのメンバーになってしまう。
あとギャング問題は子どもたちだけじゃなくて、大人のギャングも多いから、拳銃の打ち合いも普通にある地域で生まれ育った子っていうのは、それしか知らない子の方が多いですね。
だから飛行機に乗せてわざと遠くの施設に送るのは、環境を変える、今まで周りにいた人とは全く違う人たちと会って、違うものを見て、そこで改心してもらうっていうこともあるんです。
でもステイシーもいきなりパッと変わったというわけではなくて。
プログラムの中にはセラピーもあったり、朝起きてベッドメイキングしたとか、遅れずにちゃんと来たとか基本中の基本ですけど、そういう一つ一つが点数制になっていて、点数によってレベルが上がっていくんですね。
レベルに応じてお小遣いの額も違ったり、テレビを見れる時間が長くなったりというシステムもあります。
あとは、私もステイシーも話し好きだったので、ステイシーがしゃべりたそうにしていたら横に座って話しかけてというのを心がけていました。
人種も違う、こういう仕事をしている人との出会いもステイシーは初めてだったと思うし、私以外のスタッフも含めてステイシーにとってのロールモデルになる存在だったり目標ができたというのが大きいかもしれないですね。
鬼澤:自分のいた世界が当たり前ではないんだって気付くことから始まり、シェルパさんや色んな人の働きかけによって全然違う生き方もいいなって思えたり、目標が見えてきたんですね。シェルパさんは今ご自身にとっても馴染みの深いネパールで活動してくれていますが、シェルパさんが目指したい世界って何かありますか?
シェルパ:私、“生き甲斐”って言葉が好きなんですね。
仕事や家庭、プライベートでも、生き甲斐を得るには、自分が好きなこと、得意なことをするとか色々あると思うんですけど、全ての人が意識せずとも生き甲斐を感じられている社会かな。
だから英語で“always(常に)”とか“must(必ず〜しなければならない)”とか、そういう絶対的な言葉は、成長のためとか使う必要のある場面は除いて、極力使わないようにしているんです。自分の気持ちや物事の本質的な部分を排他し、見えなくなってしまう場合もあると思うので。
本当に自分がやりたいと思っているのかを大事にしてるし、やりたくないし、やる必要もないのに「〜しなくちゃ」って、それ意味あるのか?って。
鬼澤:今、シェルパさんは生き甲斐を感じて生きられている実感はありますか?
シェルパ:私のどの時期を切り取っても、それは絶対満たされているんじゃないかなと思います。後悔したくないんですよね。やって後悔した方がいいと思ってます。基本ポジティブなので。
鬼澤:ありがとうございます。シェルパさんのポジティブさや常に自分のやりたい事に突き進んでいく感じというのは、お父さまが背中を押してくださっていたんだなって思ったのですが、アメリカの暗部もみてきたお父さまが、娘を引き止めることなく逆にアメリカに送り出したというのも凄いなと思いました。
シェルパ:父は逆に自分の親、つまり私の祖父がそうじゃなかったんですね。職人肌で言葉数少なく、ご飯時には何もしゃべらないというような家庭で育って。一方で、父にとってのおじさんの家庭は、今の私たち家族みたいな感じで、だからロールモデルは父のおじさんですね。
鬼澤:自分のやりたい事に対して応援してくれる人が周りにいるというのは、すごく嬉しいことですよね。今シェルパさんは旦那さまと娘さんと一緒にネパールに住まれてますが、シェルパさんのご両親は寂しがったりしませんでしたか?
シェルパ:寂しいって言ってました。でも私が両親に言ったのは「日本人はネパールにこれるやん。ネパールから日本にはビザの取得が難しいからなかなか行けない」って。
あと私の弟も、子どもが生まれて実家も近いので楽しそうにしてますね(笑)
鬼澤:なるほど。今、娘さんは何歳ですか?
シェルパ:今2歳1ヶ月になりましたね。まだちっちゃいですけど、現地の言葉とかも覚えていってますね。ネパールに移ったのは彼女のためでもあるんです。日本人とネパール人のハーフなので、自分のルーツを知っておいた方が良いし、体験させてあげるのは親の仕事なんで。
鬼澤:娘さんにとっても貴重ですよね、日本とネパール、シェルパ民族の文化も知って、色んな人に囲まれて。娘さんがどういう風に育っていくのか楽しみですね。
シェルパ:そう、楽しみですね。もうお祈りとかはやってますね。義母がチベット仏教なんですけど、家にお祈りの部屋があるんですね。そこに遊びに行ってお経の声が聞こえたら手を合わせますね。
鬼澤:この場面ではこうするというのを分かってるのはすごいですね。最後に、いつか娘さんが大きくなって、日本語のこの文字も読めるようになって、この記事をもしかしたら目にするかもしれないということを踏まえて、娘さんが人生に誇りを持ちながら社会にも思いやりを持てるようになっていけるようにするために、シェルパさんから娘さんに伝えたいことを教えてください。