こんにちは、e-Educationフィリピン担当の秦大輝です!フィリピンの首都マニラのスラム街に住む高校生たちに、大学受験対策の映像授業を提供するために日々走り回っています。
立ち上げの担当として任命されて、日本での調査とマニラに向かった経緯は前回の記事でご紹介しました。今回はその続きを書き綴りたいと思います。実は、マニラについた後すぐに、首都から離れた南の島、ミンダナオ島に飛びました。
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期待を胸に始まった、僕の挑戦
11月1日、僕はマニラの空港に降り立ちました。空を見上げると雨期があける季節にも関わらず、雲が一面に広がり今にも雨が降りそうな雰囲気だったことを覚えています。
しかし雲行きとは裏腹に、「さあスタートさっそくマニラで調査開始だ!!!」と、不安も大きくありました。しかし、踏み出してしまった以上、後に引けないという吹っ切れからか、これから起こるであろう様々な出来事に胸を弾ませ、僕の脚は軽やかにフィリピンの土を踏みしめていました。
「秦くん、マニラじゃなくてミンダナオに来て!」
マニラについて早速現地のニーズ調査をしようとしていた矢先、「すぐミンダナオに来て欲しい!」との連絡を受けました。連絡の主は、後に僕と共にフィリピンでe-Educationを進めることになる、早稲田大学の佐藤建明くん。
佐藤くんはこれまで1年間休学し、フィリピン最大のNGOガワドカリンガでインターンをしていました。そしてインターン終了後、ミンダナオ島のカガヤンデオロ市で映像授業でニーズのある課題を発見し、e-Educationに連絡をくれていましたが、このとき当然面識はありませんでした。
佐藤くんからの提案は、簡単にいうと「カガヤンデオロ市内に住む貧困層が多く通う私立高校で受験支援をしたい!」というもの。この時の僕の率直な気持ちとしては、これから探そうと思っていた現地のニーズが既にわかっているということで幸運だと思いました。
ちなみにミンダナオは紛争などから治安があまり良くないという先入観がありましたが、聞いてみたところカガヤンデオロ市は安全ということがわかりました。
「ニーズがわかっているならば話が早い」と、マニラに到着した翌日、飛行機を新たに予約し、僕はミンダナオへ向かいました。
笑顔で協力してくれる先生方、順調な滑り出し
ミンダナオ島についた後、まずは現状を把握するため、「e-Educationプロジェクトの実施を予定している高校で調査しよう!」ということになりました。
どの科目が子供達に欠けていて、どのような映像授業を先生達はのぞんでいるのか。プロジェクトを進める前提に立った上で、切り口を探るための調査が始まりました。
ファーストコンタクトとなる学校で僕達が期待と緊張で待っていると、「わざわざ日本からようこそ!」と、校長先生が満面の笑みで登場。
当時、僕は英語が全く聞こえなかったので、ほとんど理解はできなかったものの声色や表情などから、生徒のためになる活動を行なっていると判断して頂けたのか僕たちを歓迎してくれ、活動も好意的に受け止めてくれていました。
そして、「映像授業を実施したい時はパソコン室を使ってもいいよ!」とパソコンの使用もすぐさま快諾していただき、まさに順調すぎるほどの滑り出しでした。
次の日には受験生を担当している先生方にインタビューを実施し、数学・物理が生徒のネックになっていることもわかり、実施する授業も明確になりました。
この当時は「これならすぐに映像が作れてしまうし、実施もスムーズにいける!ラッキーだ!」と、問題が簡単にクリア出来てしまうと考えていました。今にして思えば、非常に安易な考え方なのですが。
さっそくDVD授業の構想を考え始めた学校の先生(右)と佐藤くん(左)
少しずつ感じ始めた違和感
翌週の早朝、プロジェクトを実施する生徒へ直接アンケートをしてみようと決めました。
実施まで少し時間があったので、ニーズが有るだろうと思い込んでいた僕たちはアンケートを取った後すぐに動けるように、事前にプロジェクト協力を依頼する予定の方へ挨拶をしたりと外堀を固める1週間をすごしました。
そしてアンケート調査当日、学校へ!意気揚々と初めて入った教室には、およそ40人の生徒が授業を受けていました。
「え!人すくなっ!?」
日本の教室ならば40名でも多いほうですが、僕たちが事前にネットで調べていたことと違っていたのです。フィリピンの貧しい地域にでは80人くらいで1クラスを形成しているとあったので、非常に違和感を感じました。
ただ、違和感を感じる一方で「先生が言うなら間違いないのだろう」と流されるまま実施することに。
予想よりも遥かに人数が少なかった学校の授業
ここは、中流層以上の子どもたちが通う学校だった
心にモヤモヤしたものを抱きつつも調査開始!
アンケート内容は事業実施を前提とし、大きくわけて以下の2つを確認するものでした。
・何の教科の授業をやってほしい?
・志望校はどこ?
2つめの志望校を尋ねる質問で、違和感が疑問に変わりました。なぜなら最も志望する大学として多かった回答が、「アテネオ大学」だったからです。
アテネオ大学は私立大学で、日本でいう慶應義塾大学のような比較的裕福な人々が通う場所です。ここには強い疑問が生じました。なぜ教育格差が大きいと聞いて来たこの場所で、これほどまでアテネオ大学志望者が多いのだろう?
そこで、偶然初めて出会ったその学校の先生に聞いてみました。
「学生が出している希望進路は良い所が多いですよね。私立も多いですし。本当にここの子ども達は他の地域と比べて教育の機会が少ない貧困層なのでしょうか?」
先生は返し方に窮しているようでした。そして出てきた答えが、「んー…そう言われると中流以上かな…。格差は…分からないな。」
聞いていた話と違いました。ここの子どもたちはみな、比較的裕福で教育機会に恵まれていたのです。
この齟齬が生じた原因のひとつとして、フィリピン特有の朗らかであるが故のコミュニケーションのミスがあったのですが、この話はまた別の時に書こうと思います。
生徒のニーズを掴むためのアンケート調査を実施
気がつくと背中には期待という名の重圧が
先ほど書いたように、アンケートの実施に至るまでこの地域に住む様々な人たちに挨拶をし、同時に期待をしてもらっていました。それは僕達が「ここでやる」という意思を明確に示していたからこそのものです。
僕達が「やる」という意思を示したから、学校の先生達は期待して、協力してくれました。市の教育局関係者も、大学関係者もそう。生徒達にも断言はしていませんでしたが、うわさを聞いて期待してくれていた方も多かったかもしれません。
違和感を感じる一方で、ここで「中止」という判断をすれば、こうした方々が寄せてくれた期待を反故にすることになってしまう。
更には批判を受けるかもしれませんし、日本人というイメージが悪くなってしまうかもしれません。何より、僕は「嫌われたくない」と思ってしまいました。
結果を出したいというあせり
嫌われたくないという心境と共に、トライアル映像がある程度出来ていたことで、現場では実施直前まで進んでいました。
ここまでたどり着くために、2週間という短い期間の間必死に動きまわりました。ある時は熱中症にかかりそうになりながらも炎天下を走りまわりました。
日に日に疲労感は蓄積していきましたが、それと同時に充足感や手応えも増していました。そして今後更に広げていくための各種予定やプロジェクト計画も組みました。
「後もう少しで、フィリピンというe-Education初めての土地でひとつのモデルを作ることができる。仲間にも『僕、やったよ!』ということができる」
だからこそ、現地の方々の期待を裏切って嫌われたくないと、疑問に目をつぶってでも今僕たちの目の前にあるプロジェクトで結果を出したいと思いました。
アンケート調査を終えて、僕たちは無言でした。あれ? 僕、何をしにきたんだっけ?
アンケートから数日が過ぎましたが、僕たちは依然と違和感を抱えながら動いていました。ここ数日のストレスが体に現れ始め、ついには抜け毛が急激に増えるまでに。
その週の日曜日休暇だったので、住んでいた家の近くの海に一人たたずみ、ぼーっとしていました。僕の目に入る光景は、汚い海。工場の近くの海で、ゴミがいったりきたり揺れながら浮いてる様をずっと見ていました。
「あれ僕、なにしにきたんだろう?・・」世界一周という道ではなく、僕はe-Educationという道を選んでこの場に降り立ったはずでした。
渡航前、同じフィリピンの施設で見て、心から思っていた「勉強をしたい子どもたちが学ぶことの出来ない状況を救いたい」という気持ち。
あの時、施設には教育を受けれている子をうらやましく思いながら、その不均衡さを受け入れなければいけない子供達が大勢いました。
自分が本当に信じれる胸の張れることをしたい。胸をはって現地の子どもたちが笑顔になれることを。
それを思い出したとき、「大切な思いや価値よりも、自分が嫌われたくない、他人によく思われたい思いが勝っていた」ことに気づきました。
次の日、メンバーに「今やってることに自信が持てない。」と正面から伝えました。
これまでの間必死で実施に向けて動いていたので、みんなは僕の言っている事が何を意味するかはわかっていました。仮に引き返すという選択を考えた場合、これまでの3週間が白紙に戻ることがどれほど大きいことかはメンバー誰もが理解していました。
僕の隣ではメンバーが泣いていました。たまらず僕もうつむきました。その後、何度も何度も話し合い、揉めた末に出した結論は、「再出発」。
僕たちは再び、1からやり直すことを選びました。
マニラの景色は変わっていた
再出発を決めた4日後、当初の予定であったマニラへ戻りました。佐藤くんはミンダナオ島に残り、僕はマニラで再度あたらしいニーズを見つけていくことで2つの道を同時に切り拓く事を選びました。
そうは言っても、再出発の旅路のスタートは、お世辞にも清々しいものではありませんでした。大きな不安を抱えながらのものであり、3週間前に見たはずの同じマニラ空港からの景色が、以前よりもよどんで見えた気がします。
その時、3週間の成果を白紙に戻すことを肯定的に受け止めれるだけの心の余裕は僕たちにはありませんでした。
今になって思い返すと、あの時間があったからこそ前に進めることが出来たと思うものの、当時の僕たちに残ったのはこれまで頑張ったことが崩れ去ったことによる徒労感と再出発の不安だけ。
あと1ヶ月でニーズがみつけることができなかったら、日本に帰る。そう、覚悟を決めました。
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